同人女のぼやき

腐女子やめられない

考えたこと

暇だと余計なことを考えてしまうもので、また休みの日に余計な事を考えていた。

Twitterにおける女の同人活動は、中学校時代におけるスクールカーストみたいなものだと思う。Twitterが教室として、同じものが好きで繋がって、グループを形成して、リーダー格に頭が上がらないとか、解釈違いやその他の価値観の異なりで仲違いしたり、ある1人をハブるなんてこともあったりするらしい。

学校や職場といった勉学のためとか、お金を得るため、とか生きるのに必要な生活の場所なら、価値観の違う人に会っても折り合いをつけ我慢することもあるだろう。そうしないと生きていけない。

趣味の場所でもカーストができるというのがつらい。好きだと思っていた事を、相手がとてもうまい絵や小説、または濃ゆい考察をしてこういう人たちが羨望を集めたりする。数字に踊らされる。

好きという気持ちは測れないものなのに、そういう所でグッズの数や課金額とかで相手のことが見えてしまう。相手だって努力しているのだろうけど。どうすれば「自分は自分」と割り切れるのだろう。相手に対する妬みの方が勝ってしまう時点で、自分が愚かな人だと思う


大人になってから作品から受ける感動とかが減った気がする。創作物に触れすぎてそんな気持ちが薄れているのかと思ったけど、別にそこまで創作物に触れてこなかった人生だったと思う。

義務教育中の学生の頃、アニメに関しては人権のない地域に住んでいた。アニメを見るならCS放送の有料アニメチャンネルに加入するしかない。親が許してくれなかったので、そのチャンネルで、番組放送開始前に10分ほど今期のアニメ予告を無料で流す枠というのがあり、私はそれを見るためだけにテレビの前に待機し、アニソンのサビと共に色々なアニメの告知がノンストップで流れていくのを見るのが至福の時だった。

今思えばかなり歪んだ楽しみ方をしていたものだ。でも、アニメの告知だけでワクワクして生きていたあの純粋な気持ちは今思うとなんて健気なのだろうと思う。余談だがとある雑誌の後書きに「CSのアダルトチャンネルのタイトルを見るだけで興奮して、妄想が捗りまくりな中学生時代でした」という編集さんの一言を読み、なんか言いたいことは似てるかも、とふと当時のことを思い出した。


「おじさんになって作品が楽しめないのは、その作品が中学生、高校生向きに作られているから」「みている作品に合わせて自分の精神年齢を微調整するとあらゆるジャンルを楽しめる」という感じの呟きが昔Twitterでバズっていた。私もこうしていきたい。

キラキラした学園生活な作品をみると最近は昔の自分と比較して落ち込んでいたのだけど、「割り切ってるから鬱にならない」という人がいて早く私もこうなりたくなった、過去を悔やんでもしかたないんだもんな。


それにしても、田舎に住んでたってネット環境さえあれば、サブスクに入ると自分の好きなタイミングで好きな作品が見れるし、地域で放送外のアニメもネット配信で観られるのだから、とても贅沢な時代だ。昔はアニメすら見せてもらえなかったから、この部分はほんとにいい時代になったよ。

Twitterをしていた時は、アニメイベントやコミケ、その地域にしかないオタクショップ限定のイベントや限定特典を手に入れてる都会の人を見ていいな、と思っていたけど、作品に触れるチャンス自体は環境があればできるんだなと思うと本当にありがたいんだよな。同じ趣味の人がいなくて、静かに自分で楽しめるのならそれでいいはずなのに、Twitter見てると仲良くなってる人たちをみて落ち込むんだよね。面倒くさい。

二次創作で愚痴ばかりになるけど、こういう根幹の、公式に対する感謝みたいなものを忘れずにいつまでも純粋に楽しめる人間でありたい。